2008年7月31日木曜日

フォ○チーに教える日フォン史③w

ども。たです。

ハイ。というわけで、本日も日フォン史の続きでつ (・ω・)

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『京は守っては不利。』その事実を義仲討伐において肌で感じていた
義経は、同年 2 月初め、平家を討つべく軍監土肥実平 (とひ さねひら)
とともに、約 2 千の兵を率いて、2 万とも言われる平家軍を討つべく
一ノ谷へと向かう。

その頃、義経軍の出兵を知った知盛は、三草山に平資盛 (すけもり)、
夢ノ口に勇将教経、そして自身は 1 万の兵とともに生田ノ森という
配置で源氏軍に挑む。主力をほぼ源氏軍撃墜にはたいてしまった
一ノ谷は行盛 (ゆきもり) 率いるわずか 2 千の兵が残るのみであった。

一ノ谷は眼前に海、背後に崖という守るには絶好のロケーションであり、
大手の軍が攻めるには、その以外の 2 方向しかない。その地形を
知った義経は、わずか 70 の兵を率い、その他の兵を夢ノ口より
進軍する土肥実平に預け、自らは、一か八かの崖下りを決意する。

よもや崖から敵が降ってくるなどとは思いもしなかった平家は、もはや
逃げることしかできず、これによって義経は、平家を海上へと追い落とす
ことに成功した。

これが世に有名な一ノ谷の逆落としである。

一ノ谷における義経の武功を聞くにつき、義経の非凡な才能に
恐れをなした頼朝は、多くの武将が鎌倉に凱旋する中、義経に
京の警備を命じ、義経を鎌倉の地を踏ませることはなかった。

そして同年 5 月、頼朝は、一ノ谷までの一連の大勝の恩賞として、
源範頼、源義信 (よしのぶ)、源広綱 (ひろつな) の 3 名を国司と
するよう、朝廷へ任官の要望を出した。
しかし、そこに一番の武功を挙げた義経の名前はない。

範頼は、大手の兵を率いて、義経の奇襲作戦を成功に導いたと
いう見方もできなくもないが、その他の 2 名はいったい
何なのか ┐( ̄ヘ ̄)┌

真実は知る由もないが、この頃より義経は頼朝に対する不満を
抱き始めたに違いないと個人的には思うのである。

そこへ来ての後白河法皇よりの任官命令。鎌倉方への任官経緯の
説明はどうあれ、喜び勇んで任官に応じたと言っても過言ではないの
だろうか。

ちなみに、その時に法皇より授けられた官位が「検非違使左衛門の尉
(けびいしさえもんのじょう)」であり、法皇も鎌倉方に一定の配慮をしたのか、
さほど高い官位というわけではなかった。

ところで、「判官贔屓 (ほうがんびいき)」という言葉をご存じだろうか。
「判官」とは、このとき九郎義経が授かった官位の別称であり、
数々の武功を上げながら不遇の人生を送った九郎義経に対する
憐みを込め、そういう弱い立場の人をえこひいきしてしまうことや、
ひいきしたくなる心情のことを言う。

この鎌倉を通さぬ任官に頼朝は激昂し、ここに兄弟の確執は
より確実なものとなったのである。

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ってことで、あまり長くなっても何なので、今日はこの辺で。

そんなこんなで。
では。

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