2008年7月28日月曜日

フォ○チーに教える日フォン史①w

ども。たです。

理系だ、理系だと口をすっぱくして言ってきましたが、
意外と日本史は好きなんです。
#学生時代の無意味な暗記科目としての日本史は
#嫌いでしたが。。。

有名所で言うと、例えば、織田信長とか、源義経とか。。。
書いてて気づきましたが、どちらも歴史的な最期で
実は死んでいないんじゃないか、、、なんて今でも
言われているミステリー感あふれる二人ですねー。

織田信長に関して言えば、本能寺にて明智光秀の
謀反を聞いた際に言ったとされる、「是非に及ばず。」から、
織田信長と対等に戦ったと言っても過言ではないにも
関わらず、あまり知られていない雑賀孫一 (さいか まごいち)
などなど、学校では習わないようなマニアックな事が
結構好きw
#相変わらずの『天の邪鬼』っぷりw

で、不定期にてお送りしようと考えている「日フォン史」ですが、
今回は、源九郎義経に関して。

ちなみに、自分の記憶している事項が真実、及び事実である
保障はないので、そういう話もあるんだー、位の気持ちで
呼んでいただけると幸いでつ (・ω・)


■ 源九郎義経 (みなもとの くろう よしつね)

幼名を牛若と言い、父 義朝 (よしとも) の最期の地である
尾張国にて元服し、父の名前から一文字取る形で、
義経と名乗るようになった。

ちなみに、牛若丸という呼ばれ方の方が有名かもしれませんが、
この『丸』とは、「う○こ」のことで、その昔、かわいい子にかわいい
名前を付け、そのまま呼んでいると、死神にも魅入られ易いと
考えられていたため、とるに足らない人物だから、連れて行っても
仕方がないと死神に思わせるように、『丸』を付けて呼んでいた
そうです。

で、義経ですが、義経には、武蔵坊弁慶の他にも義経四天王
と呼ばれるほどの、一騎当千たる仲間がおり、その名を
「伊勢三郎義盛 (いせの さぶろう よしもり)」、
「佐藤三郎継信 (さとう さぶろう つぐのぶ)」、
「佐藤四郎忠信 (さとう しろう ただのぶ)」、
と言います。
#文献によっては、違う人の名前もあるみたいですね。
#「駿河次郎」とか「常陸坊海尊」とか。

京都の五条大橋で弁慶と出会い、打倒平氏に向け
力を蓄えるべく、向かった奥州への道すがら、伊勢義盛
を郎党に加える。
奥州平泉においては、藤原秀衡 (ふじわらのひでひら)
の庇護を受け、平穏な日々を過ごしていた (ハズであるw)

尚、義経は、藤原秀衡より、思いのほか信頼を得ていた
ようであり、後に頼朝より追い詰められ、再び奥州平泉へと
落ち延びてくるが、その際、秀衡は何があっても、義経を
頼朝へ差し出すようなことはしなかったし、死の間際にも
遺言として、義経を守り通すようにと言付けるほどだった
とのことである。

話を本筋に戻す。
奥州において平穏な日々を過ごしていた義経であるが、
伊豆において、兄頼朝が挙兵したことを知り、居ても立っても
いられず、兄の元へと馳せ参じる。
その際に、藤原秀衡より命を受けて、義経に同行したのが
佐藤兄弟 (継信 & 忠信) である。

ここからはご存じの通り、義経の快進撃が始まるのであるが、
戦での武功ほど、私生活というか兄頼朝との折り合いは上手く
行かず、義経にとっては、心穏やかでない日々の始まりでも
あったことであろう。。。

また、これも個人的意見であるが、頼朝方には、戦の素養
というか素質のあった者が、義経くらいしかおらず、頼朝の最初の
出兵も失敗だし、平家討伐の詰めを任された範頼も進軍が
上手くいかず、最後には、頼朝は致し方なしと、武功を
上げさせないようわざと進軍から外した義経に出兵を命じている。
#というか、当時の平氏と源氏の兵力の差を考えるに、頼朝や
#範頼は普通で、義経が非凡過ぎただけなのかもしれないが。。。

というところで、本日の「日フォン史」は終わりっ!
続きはまたということで。。。

そんなこんなで。
では。

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