ども。たです。
本日は、日フォン史の第二段。
で、本日、今後のネタまとめをしてみたところ、B5 版の紙が
5 枚と少しいくくらいの分量がありました ^^;
ま、この分量だと、間違いなく今回では完結はしないねw
この手の話が好きな人は、今しばらくお付き合いくださいな。
あ、あと数学ネタとして、コイントスに見るようなランダムウォーク
運動 (?) の事象無限回による std の収束値なんてのも
扱ってみたいと考えています。
業務で必要になったものだけど、面白そうなんで、ここでも
公開しよっかなーって感じです。
ではでは、早速、日フォン史の続きです。。。
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奥州の地に立ってから 5 年が経ち、伊豆での頼朝軍挙兵
を知った義経は、居ても立ってもいられず、兄頼朝の元へと
旅立つ決意をする。
時に義経 22 歳、秋の出来事であった。
頼朝は挙兵するも、その実、地方武士の平家への不満が
爆発しただけであり、明確な主従の関係があるわけでもなく
吹けば飛ぶような集団であったためか、この挙兵は失敗に
終わる。その意味で、平家への不満の募る武士たちには、
源氏の大将の息子であった頼朝は実に担ぎあげやすい
対象であったと言える。
これは後に治承の乱 (じしょうのらん) と呼ばれ、同じころ
いとこにあたる木曾義仲 (きその よしなか) も挙兵している。
治承の乱にて、敗北を喫した頼朝であったが、坂東武者の
平家への不満、いらだちは、その程度で萎えることもなく、
頼朝は、奇跡とも言える再起を果たす。
そして、再び平家軍と富士川を挟んで向かいあうも、
合戦前夜、水鳥の羽音に驚き、源氏方が攻めてきたと
勘違いした平家軍は、その混乱に乗じて全軍逃亡。
ここに頼朝は戦わずして勝利を得る。
これも頼朝が生来より持っていた運なのか、
勝利の経緯はどうあれ、平家軍に勝利した頼朝の地位は
確たるものとなったのは言うまでもない。
富士川の戦い後、義経は頼朝軍に合流するも、
約 3 年の間、頼朝は鎌倉での足場固めに終始し、
義経に平家討伐の機会はなかった。
そうしている間にも、寿永 2 年 (1183 年) いとこ木曾義仲軍が
越中倶利伽羅峠 (えっちゅうくりからとうげ) にて平家軍を撃破
そのまま入京を果たし、平家は守るに不利な京は捨て置き、
西国へと落ちた。
常勝軍と名高い義仲軍は、そのまま平家軍を追うも西国にて
平重衡 (しげひら)、通盛 (みちもり) 軍に敗北。
中でも勇将と名高い平教経 (たいらの のりつね) の前に
なすすべなく敗走とのこと。
その他に平家側で有名な将として、その名の通り知将と名高い
知盛 (とももり)がいる。
平家軍に敗北後の義仲軍、京にての乱暴・狼藉が目に余るのと、
義仲による後白河法皇の幽閉も相まり、義経に木曾義仲討伐の
命が下る。義経にとっては、義仲軍 5、6 千に対して、わずか
5 百の兵を任されての初陣であった。
義経軍わずか 5 百を先発隊とし、後発隊 5 千の軍勢を頼朝は
源範頼 (みなもとの のりより) に任せる。
義経軍は、範頼軍の合流を待ち、義仲軍が守りを固めていると
思われる勢多 (せた) を範頼に任せ、自らは、与えられた 5 百の
兵とともに、後白河法皇の救出を優先させるべく宇治へと向かう。
義経に奇をつかれた義仲は、寿永 3 年 (1184 年) 敢え無く敗退。
巴御前とともに、京から落ち延びた義仲は、乳母子 (めのとご)
今井兼平 (いまい かねひら) と合流すべく勢多へ向かう。
勢多にて、兼平と合流を果たした義仲であったが、その後も
鎌倉軍に追い立てられ、粟津、あるいは大津にて討たれたという。
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これで大体 B5 版 1 枚分くらい ^^;
つまり、あと大体 4 、5 回のシリーズになりそうな予感。。。
前回も言いましたが、これが史実であるかどうかは、
個人的には知りかねますし、これからどんどん義経側に立った
表現が目立ってくると思います。
また、読んでくれている人には、自分より本件に関して詳しい人も
いるでしょう。なので、上記のものは、歴史上の史実に加え、
個人の想像も入っているんだろうなー、位の気持ちで
読んでいただけると、よりいっそう楽しめるかと。。。
あ、ちなみに、前回義経四天王として欄外で名を挙げた
「常陸坊海尊」ですが、どうやら、この人物自体は、後の歴史家が
登場人物に加えた想像上の人物なんじゃないか、、、って意見が
多いみたいですね。
ま、これすら真偽のほどは確かじゃありませんがw
そんなこんなで。
では。
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