2008年8月3日日曜日

フォ○チーに教える日フォン史⑤w

ども。たです。

いやー、今日も暑かった以外ネタねぇや、、、
ってんで、第 5 回日フォン史行くことにします。

壇ノ浦以降の物語は、聞くも涙、語るも涙のものがたり。

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源氏に頭領たり得る存在は二人もいらぬということか、
はたまた、義経の非凡なる戦の才能に畏怖したのか、
頼朝は京に凱旋を果たした義経から、兵を取り上げ
絶縁を言い渡す。

それに対し、義経は異心なき旨の起請文、腰越状を届けるも、
当然受け入れられるわけもなく、義経は鎌倉の地を
踏むことなく京へと引き返す。

京においては、叔父の行家から頼朝に対して挙兵するよう
再三働きかけられるも、義経は拒み続ける。

また、鎌倉方も特別な理由なく義経を攻めるのは体裁
が悪いと、義経に挙兵させるべく京へ刺客を送る。

京へ送られた刺客・土佐坊昌俊 (とさのぼう しょうしゅん) は
文治元年 (1185 年) 義経を夜襲するも、義経方これを撃退。
ここまでされてもまだ義経は挙兵を決心しないのであった。

ついに鎌倉方も手段を選ばないで来ていることを知り、
京にとどまることに危険を感じた義経は、まだ頼朝の
影響の薄い西国を目指して船を出す。

しかし、
平家討伐の際には嵐の海を乗り越えた義経の運も
ここにきて陰りが見え始めていたのか、船旅の際
再び嵐に見舞われ、この度の船旅は失敗に終わる。

その後吉野山に身を隠すも、頼朝の追手に嗅ぎつけられ
ついに万策尽きた義経は、佐藤忠信を自身の身代りにし、
追手を引きつけ、その隙に自分は弁慶と共に逃亡に
成功する。

その後、忠信は頼朝の追手・北条時政軍に取り囲まれ、
奮闘するも多勢に無勢、斬り死にした。
尚、忠信の具者として、伊勢三郎義盛も囮となったが、
義盛はこの追手を振り切って逃亡を果たすも、その後
伊勢にて守護を襲い、奮戦ののち自害したという。

本件、義経の命によるものなのか、それとも忠信や義盛
の忠誠心からの進言があったのかは、わかりかねるが、
ここまで判官贔屓に論理を展開してきたのだ。
個人的には後者であると願いたいものである。

また、吉野山においては、義経にとってもう一つの辛い
別れがあった。それは、義経が想いを寄せた女性・静御前
との別れであり、この時、静のお腹には義経の子が宿って
いたという。静は、義経ら一行と別れた後、北条軍に捕まり
鎌倉の手に渡ることとなった。。。

その後、静は鶴岡八幡宮にて頼朝命により、舞を披露しており、
その折に詠んだうたが有名な、

『吉野山
 みねの白雪
 ふみわけて
 入りにし人の
 あとぞ恋しき』

[吉野山の峯の白雪を踏み分けて
 奥へと入って行ったあの人 (義経)
 のあと (後・跡) が恋しい。]

『しづやしづしづの
 をだまきくり返し
 昔を今に
 なすよしもがな』

[しずの布を織るおだまきから糸が繰り出されるように
 絶えず繰り返しつつ
 どうか昔を今に戻す方法があればなあ。]

であり、頼朝を前にしながら、最愛の義経を思ううたを披露した。
このうたに頼朝は激昂するものの、その中にある一途な想いに
頼朝の正室・北条政子はいたく感動し、静はここに一命を取り留める。

後に静は、ここ鎌倉の地にて義経の子どもを産み落とすが、それが
男子であったため、頼朝命により、由比ヶ浜にてうち捨てられた。

子を奪われた静は、帰京を許されるも、失意のためか二十歳にして
この世を去ったという。

さて、舞台を義経方へ戻す。
義経はその後、紆余曲折ありながらも無事 (?) 奥州平泉へと辿り着く。
そして、その帰りを待っていたかのように、文治 3 年 (1187 年) 藤原秀衡
が他界する。その際、遺言として、自分亡き後も義経を守り通すようにと
息子たちへと言付けたという。
秀衡亡き後、国を継いだ泰衡 (やすひら) は、その遺言を守り 1 年以上
鎌倉の圧力に対して沈黙を守る。

しかし…
文治 5 年 (1189 年) 4 月、鎌倉と朝廷の圧力に耐えかねた泰衡が、
突如数百の兵でもって、義経を襲う。
信じていた泰衡の暴挙に、義経は為す術なく、ここにその生涯を閉じる
こととなった。。。

泰衡は義経の首を鎌倉に差し出すことにより、奥州の独立を
保ちうると考えたが、義経という脅威のなくなった頼朝は、
文治 5 年 7 月奥州へ兵を送る。
連戦連勝の将を自ら捨てた奥州 17 万騎は、あまりにももろく
鎌倉軍の前に敗れ去り、ここに奥州藤原氏はわずか 4 代を
もって滅びることとなった。

また、頼朝は、この後征夷大将軍となり幕府を開くも、ここまでの
行為の報いか、彼が死んだ後、あとを継いだ 2 人の子どもは
北条の画策によって殺され、ここに源家の正統も途絶える
こととなった…。

-完-
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ってわけで、長くなっちゃいましたけど、「た」版義経記ここに
完結です。

ちなみに、これら情報は、全てある書物w より参照しています。
何かって?

それはね…
『修羅の刻』ってマソガだよ~んw
#いつも通り反転させてご覧くださいなw

興味あれば、ご一読を。
個人的にはかなり好きです。

そんなこんなで。
では。

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