ども。たです。
義経の平家討伐もそろそろ大詰めです。
義経自身の生涯には、まだもう一山ありますが。。。
ま、書きながら今さら『義経記 (ぎけいき)』もねぇなぁ、、、
なんて思いつつ、今日も早速w
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鎌倉の許しを得ぬ任官に激昂した頼朝は、義経を激しく叱責し、
平家討伐の任から外した。その際、平家討伐の任を受けたのが
範頼であった。
ところが、範頼軍は、平家方知将知盛の策にはまり、
進軍が停滞し、兵糧尽きかけるという苦境の中にあった。
そして、しびれを切らした頼朝は、ついに義経に兵を与え
平家討伐を命じる。
平家の本陣は四国屋島にありとの情報を得た義経は、
九州へ進軍せよとの頼朝の命に反すると反対する梶原景時と、
自らの本軍を残し、文治元年 (1185 年) わずか 150 騎の兵と
軍馬を乗せ、嵐の中屋島へと向かう。
騎馬で背後を襲われることなど予想だにしていなかった
屋島における平家方大将宗盛 (むねもり) は為すすべなく
義経に敗れ、平家は再び海上に逃げたのであった。
その戦いの際、義経めがけて放たれた矢を身代わりとなって
佐藤継信が受け、その生涯を閉じることとなる。
全軍が逃げ惑う中で、義経に一矢報いようとしたこの武将こそ
何を隠そう、あの勇将教経である。
そして源平の合戦は最終章壇ノ浦へと向かう。
ここまで義経に良いようにやられてきた知盛も船戦ならば
平家方に分がありと、小細工なしの正面衝突を挑む。
平家方 8 百隻に挑むは、熊野水軍を加えた義経軍
5 百隻であった。
船戦には一日の長がある平家軍。序盤戦は、潮の流れを読み、
戦いを優勢に進める。しかし、熊野水軍を加えた義経軍も
粘り続け、ついには再び潮の流れが変わり、展開は源氏方に
有利な方へ。
それを契機に、義経は強気に進軍を促す。
万策尽きた平家一味は、海に身を投げ、これにて源平合戦は
源氏方の勝利でその幕を閉じる。
義経の存在も、平家という敵があってのものということか、、、
頼朝は、以降義経への風当たりを一層厳しくしていくのであった。
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ついに、平家が滅びましたねー。
ま、完結まであと 1 or 2 回ってとこだと思います。
ってか、中高と歴史で源頼朝について習ったときは、
「頼朝スゲー (・∀・) 」ってなってたのに、こうして見ると
この男小心者過ぎる気がします。
って、この辺は自分が義経派だから、そう思うのかな?
頼朝派から見れば、結果は残しても、命令通り動いてくれない
部下は使いにくいってことなのかな?
難しいところだねw
そんなこんなで。
では。
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